着物を着たいと思う気持ちはあるのに、どこかで自信が持てなかったあの頃。
林真理子著『着物の悦び』は、そんな初心者の心に寄り添ってくれる本でした。
再読して、いま感じたことを綴ってみようと思います。
書 名 着物の悦び
出版社 新潮文庫
発行日 1996/12/1
この本との出会い
初めて読んだのは、着付け教室に通い始め、ようやく自分で着物を着られるようになった頃だと思う。
たぶんギリギリ20世紀(!)という時期。
バブルはとうにはじけて、景気の冷え込みはひどいものだったけど、華やかな時代をまだみんなが覚えていて、なんとなく、いずれはまた景気の良い時もくるんじゃないかという楽観も少し残っていたように思う。
“失われた30年”と言われる絶望的な暗さのほんの入り口だということに、気づきもしないで。
着物の世界の入り口で、「母がつくってくれた小紋を着られたらいいな」という、ささやかな動機で着付け教室に通い始めたのだけど、少し着られるようになると、どんどんのめり込んでしまって。
ちょうどそんな頃に、たまたま本屋でこの本を手に取ったのでした。
(考えて見れば、“本屋でたまたま”という形の本との出会いは、なかなかにノスタルジックだ)
読んでまず驚いたのは、「着物に帯や小物を組み合わせて世界観をつくる楽しさ」が、着物の世界にはあるということでした。
なんて素敵なの!って夢中で読みました。
他にも、物語を連想させるコーディネートなるものもあって、そんな粋でおしゃれでほとんど文学的とさえいえる世界があるなんて全く知らなかったので、「私もこんなことをしてみたい」と憧れましたね。
そこにわくわくしながらも、同時に「お金がすごくかかりそう」と思ったことも事実。
著者の林真理子さんは、当時まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの売れっ子作家。
ブランド好きとしても有名で、真理子さんのような買い方は、私には到底できないわけで。
それでも当時の私は、数枚の着物と帯があれば十分楽しめるはず、と楽観的でした。
「自分は林さんのようにはお金をかけられないのだから、ハマりようがないし、現実をみてちゃんと自制できる」と思いこんでいたのですが、それは着物沼の深さを知らなかったからで(笑)
若かったな、と今では苦笑いしてしまいます。
年齢を重ねるほどに、着物というものは「きれいに、おしゃれに着ようとすれば、こだわれば、際限なくお金がかかる」世界だと身に沁みます。
だから、この本は私にとって、着物沼に引きずり込んだ“ちょっとばかり憎らしい存在”でもあるのです。
「これを読まなければ、もう少し貯金できたよね」という、そんな気持ち。
もっともこれに関しては、林さん自身も本の中で
「あーあ、着物を買ってなきゃ、とっくにこのボロマンションを出られたのになぁ……」とため息をつくことがある。(215頁)
と書いています。
沼にはまってしまった着物好きが思うことは、使うお金のかけ方は違っても、似ているものなのかも知れません。
真理子さんの“正直さ”に思わず笑ってしまう
本書のなかにこんなエピソードがあります。
林さんが偶然に、招待されていない着物の展示会の前を通りかかったとき。
招待状は持っていないけれどちょっと見たいとお願いしたところ、お店の人は相手が林真理子さんと気づいていながら入れてくれなかったそうなのです。
興味を持った通りすがりの女性にどうして「ウェルカム」と言えないのか、着物業界のこういう閉鎖的なところが、若い女性たちを着物から遠ざけてしまったのではないか、と慨嘆しています。
着物は女の情念が入る衣服である。ああいう仕打ちをされると、女はずっと憶えているものだ。(28頁)
林さんの知り合いにその入場を断った呉服屋の顧客がいたのですが、この経験からそのお店との関係を断ち切らせたのだそうです。
呉服屋さんがちょっと気の毒な気もしますが、私も着物の展示会で傷ついたことが何度かあるので、腹を立てるその気持ちがわかるつもりです。
着物の展示会って、なんとなく人としてのプライドや名誉みたいなものを、傷つけるシーンがあったりするんですよ。
ちょっとした体型に関する小さな指摘がずっと心に残ったり、いいと思った商品が金額的におりあわなかったり、上得意のお客さんと自分との扱いの差とか。
むしろ私は真理子さんと違って経済力がない分、感情のこじれ方はひどいかも。
僻みを通りこしてほとんど怨念みたいな(笑)
まさに、“女の情念が入る衣服”なのですよね。
ともあれ。
こうした出来事をありのまま包み隠さず書くところが、いかにも真理子さんらしくて笑ってしまいます。
当時の呉服屋(この本の初版はちょうど30年前)には、確かにそういう“敷居の高さ”があったのでしょう。
令和の今は、着物がさらに売れなくなっている時代。
「お得意様以外はご遠慮ください」なんて展示会は、もうほとんどないのではないかしら。
私のように見た目からしてお金持ちではない人でも、着物好きだとわかれば丁寧に接してもらえることが多いですから。
着物友達が羨ましい
あと、こんなエピソードもあります。
真理子さんがまだ着物初心者のころ、染めの訪問着に黒い袋帯を締めようとしたのにうまく帯が結べず、時間がなくなって仕方なく紬の作り帯に変更して出かけたことがあったそう。
真理子さんは、“色合いが合うし、染めの着物に織の帯だから大丈夫だろう”と思っていたのに、友人から「あなた、それ違うんじゃない?」と指摘されてしまったのだとか。
あとで調べてそれが本当に間違っているとわかって、恥ずかしさで後遺症が残ってしまい、しばらく歌舞伎座に行けなくなったそうです。
着物を好きな人ならわかると思うのですが、着物と帯の格をあわせるって、理解するのが本当に難しいものですよね。
知識が問われるというのもあるけど、感覚を身に着けるのに時間がかかる分野だと思うんですよね。
着物が好きになって四半世紀たつ私ですが、それでもまだ自信が持てない部分なのです。
だから、こういう失敗にはすごく親近感をおぼえました。
ただ、その話でより印象的だったのは、きちんと教えてくれる友人がいるって素晴らしいということ。
心底羨ましいなって思いました。
着物の世界って、口うるさい人が多いようでいて、実は、肝心なことは案外教えてもらえないことが多い気がします。
お太鼓の形が悪いとか、衣紋を抜きすぎだとか、裾すぼまりになっていないとか、着付けに簡単にダメ出しをしてくる人は結構いるけど、格のことまで知った上でやんわり指摘してくれる友人って、なかなか出会えないものです。
同じことを通りすがりの人に言われたら情けないし恥ずかしいけど、一緒に外出中の仲のよい友人に言われるなら「勉強になったわ」で済むというもの。
こんな友人を持っている真理子さんって、実は謙虚で素直な人なんだろうなって思うのです。
ちょっと指摘されたらすぐむくれるような人には、こんな友人はできっこないと思うから。
この本の副題「きもの七転び八起き」をそのままに、失敗しつつもめげずにどんどん知識を取り入れていく、そんな彼女の姿勢が私はすごく好き。
失敗があっても、熱意をもってずっと着物を好きでいる── その姿はとても尊敬できるものと思います。
「着物を着たい」という心を汲むこと
本の冒頭「はじめに」で真理子さんは、専門家が書いた本は、着物の知識と着付けのことばかりで、初心者の心に寄り添う本がないことを指摘しています。
だから自分は、“メンタルな面”で着物のことを書きたいと思った、と。
そして本の最後に収録されている講演会の講話で次のように言うのです。
「浴衣で歌舞伎座に行く女の子を笑う前に、 その根本に潜んでいる“着物を着たいという心”を汲むべきではないかと私は思っています」(198頁)
これは本当にその通りだと思う。
若い子は意外と「着てみたい」と思っていると感じる場面は、私にも多くあります。
身内の結婚式で私が着物を着ると、 「いいなあ、私も着てみたい。でもお金がないから」 とよく言われるのです。
「大丈夫、探せばお金をかけなくても着られるよ。私が着ているくらいだから」 と答えるけれど、あまり信じてもらえないのですよね。
でも、その子の祖母は大の着物好きで、たくさん着物を持っていることを私は知っていたりするのです。
その着たいと思う心を素直におばあちゃんに話したら、何かが変わる気がするのですが、なぜかそこまではいかない。
だからこそ、こういうときに年長者が少し背中を押してあげられたら、若い子たちも着物に近づけると思うのだけど。
仕立て直しにお金がかかるだろうとか、すごく気をまわし過ぎて、先に進めないんじゃないかと推測しているのですが、どうなんでしょうね。
譲られた着物を家で気軽に着ることから始めるのが、一番失敗なくお金もかけずに楽しめるのに。
まず、今ある着物で着てみようよっていう環境づくりが大事なのではないかしら。
着付けを気軽に習えること。
身内から譲られた着物を、今の時代にどう着るかという情報にアクセスできること。
そういう“入口”が整っているだけで、着物はもっと身近になるんじゃないかしら。
🍀母や祖母から受け継いだ着物を、今の自分の暮らしの中でどう着るか。
そんな優しい視点で書かれた一冊です。
譲られた着物との向き合い方に迷ったとき、そっと背中を押してくれます。

こんな人におすすめ
『着物の悦び』は、着物の知識を教える本ではありません。
着物が好きな人の“心の動き”を描いた本なのです。
- 初心者の戸惑い
- 失敗の恥ずかしさ
- それでも好きでい続ける気持ち
- 着物を着たいという純粋な願い
- そして、着物が人生にもたらす悦び
林真理子さんの率直な語り口は、 着物に興味を持っている、着てみたいと思っている、そんな人の後押しをしてくれます。
着物雑誌のような教科書的な知識ではなく、 “着物を好きでいること”を丸ごと肯定してくれる一冊です。
初心者にも、長く着物を楽しんできた人にも、 寄り添ってくれる本だと思います。
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著者紹介
1954年山梨県生まれ。
エッセイと小説の両分野で活躍する作家。
『最終便に間に合えば』『下流の宴』『アッコちゃんの時代』など、 時代の空気や女性の心を鋭く描く作品で知られる。
着物好きとしても有名で、装いにまつわる率直な語り口は多くの読者に親しまれている。
『着物の悦び』では、初心者の戸惑いや失敗を含め、 ユーモアと温度をもって綴っている。
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